入浴好きの戦国武将の脳を脳科学で探るとどのようなことがわかるのでしょうか?
そのような疑問に脳神経外科専門医であるへなおがお答えします。
このブログでは脳神経外科医として20年以上多くの脳の病気と向き合い勤務医として働いてきた視点から、日常の様々なことを脳科学で解き明かし解説していきます。
基本的な知識についてはネット検索すれば数多く見つかると思いますので、ここでは自分の実際の経験をもとになるべく簡単な言葉で説明していきます。
この記事を読んでわかることはコレ!
入浴好きの戦国武将を脳科学で説き明かします。
入浴と戦国武将
入浴好きの戦国武将の脳科学
- 日本人は世界中でも特に入浴好きで、戦乱の世を渡り歩いてきた戦国武将にも入浴好きはたくさんいます。
- 特に入浴好きとして知られている戦国武将は武田信玄です。
- 脳科学では、人間の脳は大きく分けて右脳と左脳、能動脳と受動脳、私脳と公脳の6つに分類されます。
- 脳科学的入浴好きの戦国武将の脳を解析すると、右脳受動型や公脳型に近いタイプと言えます。
- 戦国時代を思い浮かべて、戦国武将にちなんだ温泉に浸かって、一味違った感覚を味わってみてください。
現代の日本では第3次サウナブームによって多くの施設がにぎわっています。
“サウナブームの脳科学”についてはこちらの記事もご参照ください。
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サウナの醍醐味(だいごみ)は何と言っても、サウナトランス=「サウナでととのう」でしょう。
温かいサウナと冷たい水風呂、休息タイムを繰り返す温冷交代浴では徐々に体の感覚が鋭敏になってトランスしたような状態になっていきます。
トランス状態になると、頭からつま先までがジーンとしびれてきてディープリラックスの状態になり、得も言われぬ多幸感が訪れます。
これがいわゆるサウナトランスであり、そして「サウナでととのう」の状態です。
”サウナでととのうの脳科学”についてはこちらの記事もご参照ください。
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サウナ―達は至高のサウナトランスを味わうためにサウナに通うわけです。
世界中にはさまざまな人種の人間がいますが、日本人ほど入浴を好む人種はいないのではないでしょうか。
そして戦乱の世を渡り歩いてきた戦国武将とお風呂はあまり結びつかないかもしれませんが、入浴好きの武将は少なくありません。
「信玄の隠し湯」はいろいろなところに散在していて、入浴好きさ加減がうかがえます。
武田信玄以外にも入浴好きの戦国武将は少なくありません。
では入浴好きの戦国武将の脳を脳科学で探るとどのようなことがわかるのでしょうか?
日本の入浴文化
日本の入浴文化は、古代から現代まで様々な変遷を経てきました。
日本人は、温泉や蒸し風呂などで体を清めるとともに、心身の癒やしや健康を求めてお風呂に入ってきました。
“入浴好きの日本人の脳科学”についてはこちらの記事もご参照ください。
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古代の入浴文化
日本には全国各地に温泉があり、縄文時代から利用されていたと考えられます。
また、神社参拝の前に川や海で身を清める禊(みそぎ)も行われていました。
最初に温泉が文献に登場するのは、奈良時代に編集された「日本書紀」です。
景行(けいこう)天皇の皇子・日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国遠征の帰りに愛媛県の道後温泉で傷を癒したという伝説が記されています。
ちなみに、道後温泉本館は、日本の公衆浴場として初めて国の重要文化財に指定されており、その道後温泉のシンボル的な温泉施設のひとつが神の湯です。
また和歌山県の南紀白浜温泉は、日本書紀や万葉集にも登場しています。
658年に斉明(さいめい)天皇と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が入湯したといわれ、天皇をはじめ多くの皇族や貴族が湯治に訪れていたとされています。
兵庫県の有馬温泉も「日本書紀」に登場する温泉です。
631年には、すでに存在していました。
孝徳(こうとく)天皇や公家らに愛され、様々な要人が有馬温泉を訪れたと言われています。
その後、何度も衰退と復興を繰り返し、戦国時代に豊臣秀吉が手がけた大規模な工事により再興したと言われています。
このように、古代では温泉は神聖なものとして畏敬(いけい)されていて、有馬温泉、白浜温泉、道後温泉の3つは日本三古湯とされています。
平安時代になると、仏教の影響で沐浴(もくよく)という宗教的な入浴が行われるようになります。
寺院では浴堂や湯堂と呼ばれる施設で僧が沐浴を行っていました。
中世の入浴文化
日本で銭湯が始まったのは、鎌倉時代と言われています。
鎌倉時代になると、一般人にも無料で温泉を開放する寺社が現れて、やがて荘園制度が崩壊すると入浴料を取るようになったことが銭湯の始まりと言われています。
戦国時代になると、合戦で負傷した兵士の治療に温泉が活用されるようになりました。
特に武田信玄は甲斐国の各地に温泉を整備し、「信玄の隠し湯」と呼ばれるようになりました。
豊臣秀吉は治療というより観光や娯楽として有馬温泉を度々訪れています。
近世の入浴文化
江戸時代になると、一般庶民にも入浴の習慣が広まり、銭湯が社交の場として繁盛しました。
江戸で最初の銭湯は、1591年に伊勢与市という者が銭瓶橋のほとりに建てたものだとされています。
当初は蒸し風呂が主流でしたが、次第に据え風呂や五右衛門風呂と呼ばれる浴槽が登場し、現在のようにお湯に浸かる入浴方式が普及し始めました。
また、男女別の浴室を設けることも徐々に行われるようになりました。
各地の温泉地では、旅人や文人墨客が訪れるようになり、温泉文化が花開きました。
近代の入浴文化
明治維新以降、西洋式の生活様式が取り入れられましたが、日本人は洗い場で汚れを流してからお湯に浸かるという入浴方法を維持しました。
内風呂は木製や鉄製が主流でしたが、タイル製造の発達とともにタイル張りのお風呂が人気となりました。
現代の入浴文化
戦後の高度成長期以降、内風呂は一般化し、システムバスルームの開発や量産化も進みました。
現在では、追い焚き機能やジェットバス機能など様々な機能が付いた浴槽や、シャワー中心の入浴スタイルに対応するシャワールームなど多種多様なバスルームが提供されています。
このように、日本の入浴文化は長い歴史を持ち、温泉や銭湯など日本独自の発展を遂げてきました。
入浴好きの戦国武将
それでは次は、入浴好きの戦国武将について探っていきましょう。
武田信玄
歴史上の有名人の中にも銭湯やサウナを好んで利用した人はたくさんいますが、特に入浴好きとして知られている武将は、先ほどもご紹介した武田信玄です。
武田信玄は、戦国時代の武将で、甲斐国(山梨県)を本拠地として、関東や信濃などに勢力を拡大しました。
信玄は、戦国最強と称された武田軍団を維持させるために、戦において医師を同行させるなど、家臣の健康に気を配ったと言われています。
さらに負傷した兵のために、何か所も温泉を開発したそうです。
信玄が開発したとされる温泉は、「信玄の隠し湯」と呼ばれています。
「信玄の隠し湯」とは、領地の甲斐国及び周辺で湯治場として活用していたと言われている温泉地の総称です。
当時は「隠し湯」という名称はなく、明治以降から昭和にかけて「信玄の隠し湯」として広く知られるようになりました。
それも、山梨県、長野県だけでなく、静岡県、岐阜県、神奈川県にまで及んでいるということから、武田信玄が領地を拡大しながら、行く先々で温泉開発を手がけたことがうかがえます。
なぜ「隠し湯」という表現で今に伝えられたのかについては諸説ありますが、一つの説としては、温泉地を世に売り出すために、旅館の経営者が「信玄」の名を冠して創作したことに由来するのではないか、というものです。
また、武田家の居城であった躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた:現在の武田神社)近くにある「湯村温泉」では、信玄自身が負傷した際に湯治をしたという記録が「甲陽軍鑑」に残っていますが、大将が負傷したとなれば民衆が混乱するため、お忍びで休んでいた(隠していた)、ということもあるでしょう。
積翠寺温泉
積翠寺温泉(せきすいじおんせん)(山梨県甲府市)
信玄の生地としても知られる積翠寺近くにあった温泉です。
残念ながら2017年に二軒の温泉宿が閉館しました。
湯村温泉
湯村温泉(山梨県甲府市)
躑躅ヶ崎館跡からも近く、甲府市北部の市街地にある温泉です。
平安時代に弘法大師が発見したという説や、傷ついた鷲が飛来して癒していたのを村人が発見したという説など色々あります。
石和温泉
石和温泉(山梨県笛吹市)
信玄が武田家の重臣である山県昌景に命じて開発したとされる温泉です。
現在はリゾート地として有名で、多くの旅館やホテルがあります。
野沢温泉
野沢温泉(長野県下高井郡)
信玄が信濃侵攻の際に発見したと言われる温泉です。
日本最古の温泉の一つで、湯治場としても知られています。
川浦温泉
川浦温泉(山梨県山梨市)
鎌倉時代に発見された温泉を信玄が命じて整備したと言われていて、武田二十四将で“武田四天王”の一角、山県昌景の子孫が代々受け継ぐ老舗旅館があります。
新田次郎の小説『武田信玄』には、
「なにもかも忘れて湯に浸かっていると、なにか生きるよろこびを感ずる」
という一節が登場します。
銭湯好きの武将は他にもいますが、武田信玄ほど温泉に関わりの深い武将はめずらしいでしょう。
「信玄の隠し湯」は、今でも癒しの場や観光地として、地元の方や観光客から愛されています。
上杉謙信
武田信玄の最大のライバルである上杉謙信も入浴好きの武将として知られています。
謙信は越後国(新潟県)の戦国大名として、関東や信濃などにも出兵しましたが、その際に沿道にある温泉に入ったという話が残っています。
その中でも有名なのが、「燕温泉」と「関温泉」です。
燕温泉は、妙高山の登山道にある白濁の硫黄泉で、謙信は川中島の戦いの前後に入ったと言われています。
関温泉は、燕温泉から少し下ったところにある赤茶色の鉄分泉で、謙信は関東出兵の途中に入ったと言われています。
また、謙信が生まれ育った越後国にも、彼が愛した温泉があります。
そのひとつが松之山温泉です。
松之山温泉は、春日山城から東に約50キロほどのところにある白濁の硫黄泉で、謙信は関東出兵の前後に入ったと言われています。
関東攻略の時に兵の英気を養い傷を癒した貝掛温泉も有名です。
さらに謙信には、温泉にまつわるある伝説があります。
富山県には、上杉謙信が発見したとされる温泉があります。
それは富山県黒部市にある「生地温泉」です。
ある時、謙信は僧侶の姿に身を隠し、北陸情勢を探りに越後から生地まで来ました。
そのとき、脚気にかかり危篤におちいってしまいます。
それを見た家臣たちが回復を祈願しに新治神社に行きました。
するとその夜、白髪の老人が謙信の枕元に現れて、
「霊水で入浴すれば病気は治る」
とお告げをします。
翌朝、謙信が外に出てみると、清水が湧き出しているのを発見!
その霊水で入浴しているうちに病が完治!
その霊水が今の生地温泉といわれています。
他にも、謙信が入ったとされる温泉はいくつかありますが、ここでは紹介しきれません。
織田信長
天下統一を目前にして本能寺の変で亡くなったとされる織田信長ですが、信長には入浴好きだったという説と入浴嫌いだったという説と2つの説があります。
まずは信長の入浴好き説です。
信長は 「下呂温泉」(岐阜県下呂市) や「 嵯峨野温泉」(京都府京都市) などに足を運んでいたという記録が残っています。
信長は温泉に入ることで、戦の疲れを癒したり、健康増進に努めたりしていたのでしょう。
続いては信長の入浴嫌い説です。
これは史料や証拠に基づいたものではなく、あくまでも伝説や創作の範疇に属するものとされています。
信長の入浴嫌い説にはいくつかの理由が言われています。
信長は父・信秀死に際して「風呂に入っている時に死ぬと地獄に落ちる」と言ったのを聞いて、それ以来風呂を嫌ったという説。
信長は桶狭間の戦いの前夜に風呂に入っていた今川義元を「風呂野郎」と罵(ののし)り、自分は風呂を嫌ったという説。
信長は自邸で極めて清潔でしたが、風呂に入ることは滅多になく、水で体を洗うだけだったという説。
しかし、これらの説はどれも信頼できる史料に基づいていないか、あるいは後世の創作や誤伝である可能性が高いと言われています。
父・信秀が死に際して言ったとされる言葉は、『信長公記』や『信長記』などの一次史料には見られず、『太閤記』や『武功夜話』などの後世の軍記物語や小説に登場するものです。
また、この言葉は仏教的な考え方であり、信長が神仏を軽視していたことを考えると、それを真に受けるとは考えにくいでしょう。
今川義元が桶狭間の戦いの前夜に風呂に入っていたという話は、『太閤記』や『武功夜話』などの後世の軍記物語や小説に登場するものであり、一次史料では確認できません。
また、信長が義元を「風呂野郎」と罵(ののし)ったという話も、『武功夜話』や『武家事紀』などの後世の創作物でしか見られません。
信長が自邸で清潔だったが風呂を嫌ったという話は、イエズス会宣教師・ルイス・フロイスが著した『日本史』に見られます。
しかし、フロイスは信長と直接接触したことは少なく、また日本人の習慣や文化に対する理解も不十分だった可能性があります。
したがって、フロイスの記述は必ずしも客観的な事実ではなく、彼自身の印象や解釈である可能性が高いとされています。
以上のことから、信長が入浴嫌いだったという話は、歴史的事実ではなく伝説や創作である可能性が高く、その真偽を確かめることは困難です。
信長は 茶の湯に深い関心を持っていました。
平手政秀や千利休から茶の湯を学び、自らも茶会を開催したり、名物茶道具を収集したりして、茶の湯を政治的な手段としても活用し、足利義昭や豊臣秀吉などとの関係を深めることにも役立てました。
また信長は食事に関しても好みがあり、玄米の湯漬けや鮒寿司 などを好んで食べたと言われています。
さらには、信長はお酒も大好きで、自ら酒造りにも挑戦したことがあります。
明智光秀
織田信長に本能寺で奇襲攻撃をかけて信長時代を終焉させた明智光秀ですが、光秀にも入浴好き説があります。
光秀は、京都の公家で吉田神道の神官でもあった吉田兼見と親交があり、その邸宅にあった石風呂(今で言うサウナのようなもの)に入りに行ったことが、兼見の日記『兼見卿記』に記されています。
元亀元年(1570年)11月13日と23日には、兼見邸の石風呂に入りに来ており、サウナの魅力にハマっていたのかもしれません。
妙心寺には「明智風呂」と呼ばれる浴室がありますが、これは光秀が入ったものではなく、光秀の叔父である密宗和尚が光秀の菩提を弔うために建てたものだと伝えられています。
光秀は文化人としても知られており、和歌や連歌などにも通じていました。
そのような教養を持つ光秀が入浴を好んだとしても不思議ではありません。
豊臣秀吉
本能寺の変で織田信長を亡き者とした明智光秀を、「山崎の戦い」(京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町)で倒し、天下人となった豊臣秀吉ですが、秀吉のすごいところは、温泉の利用目的が他の武将と違っていた点です。
他の武将は、温泉を主に「治療」として利用していましたが、秀吉は「観光」や「娯楽」として利用していました。
秀吉がこよなく愛した温泉として有名なのが、日本三大名泉の1つで関西の奥座敷として知られる「有馬温泉」(兵庫県神戸市)です。
秀吉が初めて有馬温泉を訪れたのは、天下人としての地位を固め始めた天正11年(1583年)と言われています。
秀吉は、その後も何度も足を運び、別荘も建築していたそうです。
徳川家康との小牧・長久手の戦いを終えた後や、関白就任後に、正室のねねを伴って温泉旅行に来ていたそうです。
秀吉は自分が大好きな有馬温泉を盛り上げるために、千利休や津田宗及などを招いた茶会を有馬で開催したり、慶弔伏見大地震によって壊滅的な被害を受けた温泉街の復旧や源泉の改修工事などを、莫大な費用をかけて自ら行っています。
ちなみに、秀吉の軍師であった黒田官兵衛も、有馬温泉を愛していました。
荒木村重による有岡城幽閉から脱出後、秀吉に勧められ、この有馬で療養したと言われています。
週に11回も入湯した、という記録も残っています。
徳川家康
織田信長、豊臣秀吉と続いた安土桃山時代を終焉させ、華やかな江戸時代を開花させたのが徳川家康です。
家康は「熱海温泉」 (神奈川県熱海市)を愛していたとされ、自ら湯治に行ったり、温泉水を江戸城まで運ばせたりしたという記録が残っています。
家康は入浴によって 疲労回復や健康増進の効果を期待していたと考えられます。
また驚くことに、熱海温泉のお湯を江戸城まで何時間もかけて運ばせており、これは歴代の将軍に継承された習慣となっていたようです。
「そんな遠くに温泉のお湯を運んでも途中で冷めちゃうんじゃない?」
と思われがちですが、江戸城まで運ばれたお湯は意外にもちょうど良い湯加減だったそうです。
家康は、香道や薬学にも興味を持ち、自然の恵みを利用した健康法を実践していました。
粗食や適度な運動など、現代の栄養学や医学とも一致する健康法を取り入れていたと言えます。
その結果、75歳という当時としては高齢まで生きることができました。
その他にも入浴好きの戦国武将はまだまだいます。
入浴好きの戦国武将の脳はどうなっている?
6つの脳
脳科学の世界では、人間の脳は大きく分けて右脳と左脳、能動脳と受動脳、私脳と公脳の6つに分類できると提唱されています。
右脳は感性や直感、左脳は理性や分析に関係する部分です。
能動脳は自ら行動を起こす部分、受動脳は周囲の状況を受け止める部分です。
私脳は自分の欲望や快楽に関係する部分、公脳は社会的な責任や義務に関係する部分です。
入浴好きの戦国武将の脳を探る
例えば、織田信長は、右脳・能動脳・私脳というタイプで、直感的で創造的で自己主張が強い人だったと言えます。
一方、豊臣秀吉は、左脳・能動脳・公脳というタイプで、計算高くて行動力があり、人望を集めることが得意な人だったと言えます。
さらに、徳川家康は、左脳・受動脳・公脳というタイプで、冷静で慎重で合理的な人だったと言えます。
このように、戦国武将の性格や思考は、脳の6つのタイプによって違いがあると考えられます。
では、温泉好きという点はどうでしょうか。
温泉好きな人は、一般的にはリラックス効果や健康効果を求めていると思われます。
温泉に入ることで、血行が良くなり、筋肉や関節の痛みが和らぎます。
また、温泉に含まれるミネラルや成分によって、皮膚や内臓の働きが改善されたり、免疫力が高まったりします。
さらに、温泉に入ることで、心身の緊張がほぐれてストレスが解消されます。
これらの効果は、戦国武将にとっても魅力的だったでしょう。
特に合戦や政治などで忙しく疲れた時には、温泉で癒されたかったのではないでしょうか。
しかし、入浴好きな人は必ずしも同じタイプの人ばかりではありません。
入浴好きな理由や楽しみ方も人それぞれです。
例えば、織田信長は温泉を湯治場として利用していましたが、その目的は自分の健康だけではなく、家臣や兵士の傷や病気を治すことでもありました。
また、温泉地では茶会や花見なども催しており、文化的な趣味も満たしていました。
一方、豊臣秀吉は誰もが認める入浴好きでしたが、彼は温泉を自分の権力や威信を示す場として利用していました。
秀吉は、有馬温泉に御殿を建てて滞在し、大名や武将を招いて宴会や茶会を開いています。
また、有馬温泉では自分の好きな蒸し風呂や岩風呂を使っており、自分の快適さを優先していました。
徳川家康は温泉好きでしたが、彼は温泉を自分の健康管理や病気予防のために利用していました。
家康は熱海温泉に別荘を建てて定期的に入浴しており、その効果で長寿を保ったと言われています。
また、熱海温泉では自分の家族や親族との交流を楽しんでおり、家康流の癒し方を見せていました。
しかし、総合的に脳科学的入浴好きの戦国武将の脳を解析すると、右脳受動型や公脳型に近いタイプの脳が多かったと言えます。
右脳受動型は人間関係や感情を大切にするタイプなので、銭湯やサウナで他人と交流したり、心身を癒したりすることが好きだった可能性があります。
また、公脳型は社会的な責任や義務を重んじるタイプなので、銭湯やサウナで自分を清めたり、規律を守ったりすることが好きだった可能性があります。
もちろん、これはあくまでも仮説であり、個々の武将によって違いがあったはずです。
しかし、戦国時代は激動の時代であり、武将たちは常に緊張やストレスにさらされていました。
その中で銭湯やサウナは、彼らにとって貴重な癒しの場だったという点は共通していたのではないでしょうか。
“入浴好きの戦国武将の脳科学”のまとめ
入浴好きの戦国武将を脳科学で説き明かしてみました。
今回のまとめ
- 日本人は世界中でも特に入浴好きで、戦乱の世を渡り歩いてきた戦国武将にも入浴好きはたくさんいます。
- 特に入浴好きとして知られている戦国武将は武田信玄です。
- 脳科学では、人間の脳は大きく分けて右脳と左脳、能動脳と受動脳、私脳と公脳の6つに分類されます。
- 脳科学的入浴好きの戦国武将の脳を解析すると、右脳受動型や公脳型に近いタイプと言えます。
- 戦国時代を思い浮かべて、戦国武将にちなんだ温泉に浸かって、一味違った感覚を味わってみてください。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
今後も長年勤めてきた脳神経外科医の視点からあなたのまわりのありふれた日常を脳科学で探り皆さんに情報を提供していきます。
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